小沢発言をめぐって、一神教を巡る議論になっているようです。
私はこの騒動がどのように報道されてきたか、あまり詳しく見ていません。また、周囲のブログでどのような騒ぎになっているかも気にしていませんでした。従って、先日のエントリはあくまでニュースに対する個人的理解であり、それ以上の意図はありません。
日本人には一揆の伝統があり、集団からはみ出ないことが生きる術であると認識しています。個人の言動はすべてその集団に帰属し、誰が見ていなくともその集団の一員としての秩序を守ることを強いられます。「お天道様」「世間様」というのが逆らいようのない規範を形成しています。
一方で、一神教が発達した地域は個人主義を旨とする地域だったと思います。自然環境と、そこで生きて行く術が、日本とは全く違っていたんだろうと思います。というのも、一神教の信者は個人として自由意思で神と契約することが信仰の源泉だからです。
海外で活躍する日本人が一神教の信者の前で「私は信じている宗教がない」とか「私には信じるべき神などいない」と言うと、一様に驚かれたそうです。
「では、あなたはどうして姦通や強盗をしないのか?」「それは法で禁じられている」「では、あなたはなぜ嘘をつかないのか?日本の法律では嘘をつくことも禁じているのか?」という、収拾のつかない話になるということを本で読んだ事があります。
誤解を恐れずに言うと、一神教の地では日本とは比較にならないくらい、だまし合い、奪い合い、殺し合いは平気で行なわれる風潮にある、ということだと思います。これは何も、彼らが野蛮だからというのではなく、生き残るための作法が違うだけだと思うのです。
日本の社会はゲーム理論で言う「繰り返しゲーム」であり、自分が裏切ると次には自分が裏切られるので、他人を裏切ることが不利になります。逆に、大陸文化ではゲームはほとんど1回きりなので、裏切ることが有利なのでしょう。そこで、「契約」というものを厳格に捉えるんだと思います。
そういう中で、神と自由意志で契約することが、彼らにとっては規範を守り抜く源泉になるのだ、と私は理解しています。
もちろん、神と契約したら人殺しをしないかと言えばそうではなく、あらゆる言い訳をつけていろんな無法を行なう者はゴマンといます。しかしそれでもなお、彼らの最後の砦は神との契約なのです。これを破ってまで生きて行けるとは思っていないのです。(ちょうど、日本人が世間から見捨てられて村八分になるような心境でしょうか?)
ですから、それが当たり前だと思っている人が、私たちに信ずる神がいないと聞いてビックリするのです。繰り返しになりますが、「神を信じないでどうやって子供を躾けるんだろう?」「神を信じない人同士でなぜ取り引きできるんだろう?」「神を信じないなら人の見ていないところで何をするかわかったもんじゃない」という疑問を投げかけます。しかし、つき合っていると、どうも問題なさそうなので、「日本人は不思議な民族だ」と言うことになってしまうのでしょう。
しかし、私たち日本人には絶対神に負けないくらい恐ろしい「世間様」というものがあります。「世間に通用しない」「世間で馬鹿にされる」というのは、私たち日本人の中では、もうどうしようもないレベルとして認識されているのです。
逆に日本人は、世間様に通用するような価値判断から逸脱していなければ、平気で法律違反をするし、契約違反もします。世間に通用しないような法律の方がおかしい、と言う人の方が常識的と言われます。
一神教の人が生まれて初めて我々の価値基準を目にした時、驚き戸惑うでしょう。場合によっては悲惨な事件に発展することもあるでしょう。しかしそれが「一神教の独善性」と言い切れるかどうかは疑問です。単なる文化の違いであり、お辞儀と握手の違いでしかないと私は思います。
by 故郷求めて
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